
ゴッホ展で感じた「本物」の意味
先日、東京都美術館で開催されている「ゴッホ展 家族がつないだ画家の夢」に行ってきました。ゴッホ展観に行ったのは、連休の関係で、新幹線の予約が帰りたい時間に確保できずにたまたま東京で時間があったからだったりします。もちろん、コテンラジオのゴッホの回を聞いていたり、ネットで繋がっている人が何人か行っていた影響も大きいです。
休日だったので人は結構多めでした。ゴッホ展は、ゴッホの才能を支え続けた家族の物語に焦点を当てたもので、特に弟テオ、その妻と子どもとの関係とゴッホの作品を広めていったことが丁寧に紹介されていました。そこで改めて考えさせられたのが、生成AIが発達した現代における「オリジナル」の価値についてです。
今の時代、生成AIを使えば、ゴッホ風の絵はいくらでも作れます。「星月夜風の風景画」「ひまわり風の静物画」など、プロンプトを工夫すれば素人でもそれらしい作品をすぐ生成できます。技術的な精度も日々向上していて、パッと見では本物と見分けがつかないレベルに達しています。私自身、美術の知識も乏しいですし、筆致や色使いの細かい違いを見抜く目もありません。展示されていた絵が、実は模写だったと言われても「あ、そうだったんだ」くらいにしか思わないと思います(例え話です、念の為)。
美術にそこまで詳しくない多くの人は、同じようなものなのではないかと思います。それでもたくさんの人がこうして美術館にゴッホの絵をみるために足を運ぶのは、なぜなのでしょうか。
大切なのは絵を生み出した「ストーリー」と「狂気」
展示を見て気づいたのは、私たちが求めているのは絵そのものではなく、その絵を生み出したストーリーなのかもしれないということです。
ゴッホの場合、生前はほとんど絵が売れず、精神的な病気とも戦いながら創作を続けました。コテンラジオのゴッホエピソードでも詳しく語られていましたが、ゴッホは牧師の家に生まれながらも様々な挫折と失意を経験し、疎外感の中で芸術による救済を求めていました。
ゴッホとテオが相次いで亡くなった後の物語も重要です。テオの妻ヨハンナ・ファン・ゴッホ=ボンゲルについては、コテンラジオでも語られていましたが、彼女が27歳の若さで未亡人となった後、ゴッホの作品群と900通以上の兄弟の手紙を整理し、世界各地で展覧会を開催して、ゴッホの名声確立に尽力していました。
しかし、今回の展覧会で初めて詳しく知ったのは、その後の話でした。ヨハンナの息子フィンセント・ウィレム(ゴッホの甥で、ゴッホと同じ名前)の存在です。彼が後にファン・ゴッホ財団を設立し、現在のゴッホ美術館の開館に尽力したということは、全然知らなかったので改めて凄いなと思いました。
この「才能を信じて広める」という行為は、ある意味で狂気にも似ています。誰も評価しない、生前に数枚しか売れなかった画家の絵を、それでも価値があると信じ続ける。ゴッホの絵を生み出すまでに悲劇的なストーリーに加えて、家族のある意味狂気的な布教行為が、作品に価値を与えているのかもしれないなと思ったりしました。
まとめ
「ゴッホ展 家族がつないだ画家の夢」を観てきました。オリジナルの価値って何なのかなということと、生成AI時代こそ、ストーリーとか狂気が重要になってくるのかなと改めて感じたりしました。ゴッホ展は2025年の12/21までやっているようですので、興味と機会ありそうな人は是非。
なお、写真撮影は一部を除いて禁止です。本記事のアイキャッチ画像は、撮影OKのところで撮影したものです。