きっかけは思考の担当領域が狭くなるという気づき
先日、エンジニアTYPEの記事(「AIで頭悪くなる人はもともと馬鹿」大塚あみが切り込む“AI万能感”の罠)を読んでいて、こんなことをツイートしました。
電卓使うようになって、計算能力は落ちてるけど、計算能力がそこまで必要とされなくなったように、生成AI使うと思考力は落ちるけど、そこまで思考力が必要とされなくなるんだろうなと予想してます。
頭の良さの概念が変わるんだと思います。ただ、教育が変わるまではかなりタイムラグありそう
そのツイートに以下のようなするどいリプライもいただいて、考えは結構深化していきました。
LLMの登場で "思考" の意味が変わっちゃったよなぁ。担当領域が減ったというか。
計算は電卓の登場で "思考" ではなくなり、
記憶はPCの登場で "思考" ではなくなり、
要約・パターン認識はLLMの登場で "思考" ではなくなってしまった。
歴史が証明する「思考」の機械化
リプライを読んで「まさにそれ!」と思ったのですが、実際の歴史を調べてみると更に面白いことが分かりました。
第二次世界大戦以前は「計算手」(英語では"computer")と呼ばれる専門職がありました。彼らは大砲の弾道計算を専門に行い、風向き、気温、湿度、砲弾の重量、発射角度などの複雑な要素を考慮した計算を手作業で行っていたんです。新しい大砲の弾道表を作成するのに、熟練した計算手でも1ヶ月もかかったそうです。
そして1946年に完成したENIAC(世界初の電子計算機)は、計算手が20時間かけて行った60秒間の弾道計算をわずか30秒で完了できました。まさに人間の計算力が機械に置き換わった瞬間でした。
そして、丸暗記や計算力が人間の思考力として重視されなくなってきたように、要約・パターン認識も人間の思考力として重視されなくなっていく、価値を失っていく時代になるのかもしれません。
創造性は人間だけの領域?
となると次は人間ならではの創造性が重要になってくるのかもしれませんが、ここで疑問が湧いてきました。「創造性は人間だけの特別な領域」と私たちは思いがちですが、本当にそうなのでしょうか?実はこの考え方自体は、古くからあります。
数千年前からの洞察:
- アリストテレス:連想理論(類似・対比・近接)
- ジェームス・ヤング(1940年代):「アイデア = 既存要素の新しい組み合わせ」
- ミンスキー:「心は社会 = 単純エージェントの集合」
つまり、色々な人たちが昔から「人間の創造性って、既存の知識や経験を組み合わせ直してるだけじゃない?」ということに気づいていたんです。
考えてみると、どんなに「革新的」なアイデアも、必ず何かしらの既存要素の組み合わせです:
- スティーブ・ジョブズのiPhone → 電話 + コンピュータ + タッチパネル
- ピカソの絵画 → 伝統的絵画技法 + アフリカ美術 + 工業化社会への反応
- ベートーヴェンの音楽 → 古典派音楽 + 個人的体験 + 時代背景
これって、現代のLLMがやっていることと本質的に何が違うんでしょうか?
人間とAIの違いは技術的制約だけ?
最近発表された「How much do language models memorize?」という論文では、大規模言語モデル(LLM)が学習データをどの程度記憶しているかを定量化し、「3.6ビット/パラメータ」という値を導き出しました。これは簡単に言うと、LLMは膨大なデータを記憶化し、それらのパターンを組み合わせることで出力を生成していることを示唆しています。
つまり、現代のLLMも結局は膨大なパターンの記憶と組み合わせで動作しているということです。人間との違いを整理してみると:
人間の場合:
- マルチモーダル学習(五感すべて)
- 数十年の学習期間
- 身体性のある経験
- リアルタイムフィードバック
AIの場合:
- テキストデータのみ
- 短期間の学習
- デジタル情報のみ
- 大量データの一括処理
これって、本質的な違いというより、単に技術的・物理的制約の違いだけかもしれません。ここまで考えて、自分は「LLMも、ほとんどの人間もパターンマッチングをしているだけに過ぎないのでは?」と思うことが最近増えてきました。
そして最後に、皮肉な問いかけ
ここまで「創造性もパターンマッチング」という話を展開してきましたが、最後に皮肉な問いかけをさせてください。
この文章を書いているのは人間でしょうか、それとも生成AIでしょうか?
もし私が「からあげ」というブロガーの文体パターンを学習した生成AIだとしたら、この「クリエイティブ」に見える記事も、実は膨大なデータからのパターン抽出と組み合わせに過ぎません。読者の皆さんには、私が人間か生成AIか判別できるでしょうか?
そして、もし判別できないとしたら、それは私たちが「創造性」や「思考」と呼んでいるものの正体について、何を物語っているのでしょうか?
まとめ
思考の担当領域が狭くなるという話から始まって、創造性までもがパターンマッチングの一種かもしれないという疑問に至りました。そして最後は、この記事自体が人間と生成AIの境界を曖昧にする例になってしまいました。数千年前の哲学者が指摘していたことを、現代の生成AIが実証してしまっているという状況です。
むしろ、変化を受け入れて「本当に人間らしいものとは何か」を考え直す時期なのかもしれません。私自身(人間だとして)、この変化に戸惑いつつも、新しい時代に適応していかなければと思っています。皆さんと一緒に考えていけたら嬉しいです。